雑誌PENに掲載されている「はみだす大人の処世術 / 文:小川 哲」が好きだ。
No.552に掲載されている話は「聖人君子を辞めた時」という内容で、正しくいきていこうと思っていても、ふと目にする誰かのよくない行為に対して自分が労力を支払って是正するほどではないということから、自分がそうなったのはいつからだろうと回想につながる。
ボクもわりとそういう生き方をしている。
ただボクの場合は自発的に気づいたというより、父親がそういう生き方をしている人だったのが大きい。
母親が飲み終えた牛乳パックを水で洗い、夜帰宅した父親がカッターナイフで丁寧に開いていて干しているのをよく見かけた。
そんな父親は外出先でもペットボトルや缶を飲み終えては一度水ですすいで捨てていた。(ラベルももちろん剥がして)
そういう姿を見てきて育ったせいなのか、なんとなく自分もそうするのが当たり前のようになり、今では同じことをしてしまっている。さすがに外出先で捨てる前に水場を探してすすぐほどではないが、とはいえど目に付く範囲にあればすすいで捨てている。
果てしなく自己満足ではあるが、小さなことでも少しだけ世界をよくすることができている気持ちになれるから続けている。
住んでいる住宅の廊下にゴミがあれば捨てているし、ジョギング途中にゴミがあれば拾っている。結局あの手は他のゴミが目に付いたときに魔が差すから捨てるケースもあるので、なるべくはゴミがない状態を維持するようにしている。
これに関してはどこかで見かけたが、子供に優しい環境づくりを一人でも心がけて掃除やお手伝いをしていると住んでいる地域が活性化して価値をあげることに繋がる。みたいなのを見た。
情けは人のためならず。
ボクも聖人君子になんてなれそうにはない。