#191024

ハニワを見に行った

学割で安く美術館・博物館に行けるようになったので、東京国立博物館の挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」と東京国立近代美術館 ハニワと土偶の近代 のはしごをしてきた。

一同に会したハニワを楽しむのであれば国立博物館の特別展「はにわ」がおすすめ。
古墳時代の解説と様々な形のハニワを肌で感じることができて面白い。
ハニワは教科書でみたことや、たまに美術館の展示として単品で目にする程度だった。
そのため「はにわ展」で展示されていた2m近いものから1mのものを見て、実物のハニワってこんなに大きなものだったのか、と知識欲を満たせた。

どちらの展示でも音声ガイドを利用した。「はにわ展」は石田彰さん(渚カヲル役とか)と森川智之さん(野原ひろし役とか)で、「ハニワと土偶の近代」は田中真弓さん(モンキー・D・ルフィ役とか)。
音声ガイドは一度体験すると、以降は利用せずに展示会を見て回るのは持ったないと思えるのでおすすめ。作品に対する知識が増えることでまた見えるものも変わってくる。自分の持ちあわせの知識だけで鑑賞するのは勿体ない。

余談だけど、石田彰さんといえば渚カヲルが代表作で間違いはないけれど、ボクはなぜか真っ先にPERSONA3の謎の少年 ファルロスが思い浮かぶ。同様に田中真弓さんといえば魔神英雄伝ワタルの戦部ワタルのイメージが強い。これはあとから知ったけど、NHKの教育番組「おーいはにまるくん(1983〜1989年放送)」のはにまる役声優が田中真弓さんだったらしく、そこの繋がりだったのかーとあとから気づけた。

写真は、「ハニワと土偶の近代」の出口にあったおーいはにまるくん。
懐かしいね……。

#121024

19の時につげ義春「無能の人」を読んだ影響で公園の石ころを路上で販売してみました。高田馬場でした。

石の値段は150円から900円くらいまで用意しました。最初は売れませんでしたが、興味を持ってくれる物好きな人と会話する機会が増え、だんだんトークスクリプトがブラッシュアップされて行き、3日目に時給換算で600円くらい売れるようになりました。

ほとんどの方はその露店を見なかったかのように素通りします。たまに「なにを売っているんですか?」と尋ねてくる方がいます。その方を対象にトークスクリプトを作りました。

「何をしているんですか?」
「石を売っています。すぐそこの公園で拾ったのでご利益はありません。水洗いはしてあります」
「石?なんでそんな石を売っているんですか?」
「こちらとしては原価ゼロなので商材として魅力的です。そして買うだけの価値もあります」
「価値?」
「今までにそこらへんの石を購入されたご経験はおありですか?」
「ありません」
「今後の人生で購入する機会はあると思いますか?」
「ないと思います」
「ですよね。この石を購入すると買った瞬間から『そこらへんの路上の石を買った』と話すことができます。一生に一回のチャンスです」

このパターンで売れるようになりました。今なら「そのものの価値より顧客体験が大事なのだ」と説明できますが、当時実感としてそれを得られたのは貴重でした。

「ちなみになんですが、ご自身の石に加えて、ギフト用にもう一ついかがですか?『そこら辺の石をプレゼントするまたとないチャンス』です」

それまでの会話のウケ次第ではこれもニヤニヤしながら買ってくれます。

その後社会に出て営業の経験も何度かしましたが、石売った初日の何もなさ、難易度を思い出すとどんな営業でも心が折れなくなりました。ほとんどの商材は石より価値を感じられますし。

この話、なんか仕事仲間にウケがいいです。

蛇足になりますがせっかくなので後日談を書きます。

上記のエピソードは仕事関係でまあまあウケがよく、機会があるごとに話していたのですが、この話をドイツでしたところ「フリーマーケットにいるよ」と片付けられたのでした。

実際にフリーマーケットに行ってみると、中国人が「漢字を書いただけの石」を売っていたのでした。漢字を書いただけ。しかも結構売れてる様子。意味がわからなくても「漢字だ!かっこいい!」となる欧米人は多くいます。

私はそこに、プロのアイデアとテクニックを見たような思いでした。そのタイミングで私は「そこらへんの石ビジネス業界」の存在を知り、自分がまだまだ駆け出しだったことを痛感したのでした。

ビジネスの世界は本当に奥深い。

Quora 友達に受けた話・エピソードは何ですか?

以前Tumblrで見かけた投稿だけど、また巡ってきたのでblogに引用。
似たようなのでソフトバンクの北尾吉孝さんが「アラブの石油王にアラブの砂を売ることができる男」と呼ばれていた話しを思い出す。

最近、お米が値上がりして仲卸業者が暴利を貪って中抜きしてるのが許せない!みたいな意見をSNSでよく見て微笑ましい気持ちになる。
そもそも中抜きという言葉が本来の意味と異なっている。本来の中抜きは、卸売などの中間業者を通さずに製造元と買い手が直接取り引きすること。最近よく聞く手数料だけ取ってまるなげみたいなのは、どちらかというと中間マージンの方が正しいけど、マスコミ含めインターネットメディアとSNSで悪い言葉のイメージとして定着させられた。

仲卸仲介業者がどんな仕事をしているかも想像できないから、ただ農家からお米を買って売ってるだけで儲けてる!許せない!とかなんだろう。
石の話しもアラブ人に砂漠の砂を売る話しにしても、仲介仲卸業者が農家から米を買って売るにしても共通しているのは「お互いにメリットがある」「物以外のものをお金で交換している」ことにある。
「ビジネスの世界は本当に奥深い」という引用の感想にこそ主題の味わいがある。

無能の人・日の戯れ(新潮文庫)

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#101024

A. 今失くしたソレ

ぶいすぽの小雀とと誕生日記念2024ライブを見ていると、大好きな曲の「ずぅっといっしょ!」がセットリストに入っていた。
原曲はキタニタツヤ。原曲ももちろん最高だ。男性Vocalで女性の気持ちを歌う曲は珍しいわけではないが、声と相まってなんとも言えない倒錯的な趣がある。他の人が歌ったVersionがおすすめとしてあまりでてこない曲だったのでセットリストに入ってるのが意外だったし、なにより小雀ととの3Dライブで聞けるのが嬉しかった。

ボクがこの曲を知ったのは、好きなアーティストの藍月なくるの歌ってみたで知った。

藍月なくるは様々なジャンルの歌をどれも上手く歌うが、個人的には陰のある歌詞を歌うときがとても好きだ。
「ずうっといっしょ!」も重い女の子の重い気持ちの歌詞なので、とても上手く歌ってくれる。Cサビの「あなたの一生の後悔として添い遂げるよ。外れなくなってしまった指輪みたいに」の諦めとせめてもの意地悪さを感じる歌い方がとても好き。
多くの歌ってみたは本家に似せる・その人なりに歌うが多いが、藍月なくるの場合は「この歌を私ならこう歌う」とした上で本家リスペクトで寄せにいってる感じがする。とても好感的。
もうすぐ100万再生になるみたいだけど、ボクも仕事中に無限に再生しているので再生数の増加に間違いなく貢献してそう。

ずうっといっしょ!→ビビデバINTERNET YAMERO→カレンの清掃をぐるぐるしている。
情緒ジェットコースターで作業が捗る。

放送大学入学でモリサワる(990円)

本当にそんなバグみたいなことできるのだろうかとやや不安だったのだけど、無事990円で利用可能となった。
Morisawa Fontの学生認証はSheerIDという認証会社を利用している。
この対象大学として放送大学はちゃんと登録されていることは知っていたものの、とは言えどそんなウマい話があるわけ……と思っていたけど普通に通れた。

というわけで放送大学へ入学し、放送大学から発行される学生メールアドレスでMorisawa Fontのアカウントを登録。

放送大学に入学

放送大学の学生専用サイトから「学生カルテ」→「授業料納入情報」を表示しPDFで出力してSheerIDに提出すると数時間ほどで「【Morisawa Fonts】SheerIDでの学生認証が完了しました」というメールが届く。

その後はMorisawa fontの学生向け スタンダードページから申し込み。

Uoooooo!!!

ヤケクソ値引きみたいな価格が最高だ。
これで商用利用でも使えるのだからこのためだけに放送大学入学も価値があるけど、放送大学で大卒の最終学歴も目指せるのは一石五十鳥くらい価値がある。

というわけで10月から大学生になり申した。
心のどこかで最終学歴が高卒・専門卒というのがひっかかりつづけていたものの、当時は大学に行くことも難しかったので半ば諦めていた。
放送大学の存在は知っていたものの、そのためだけに入学はどうしたものかと悩んでいたので、モリサワの件は背中にアポロウーサされたような気持ちだ。ナッテナイネェ!
入るは簡単、卒業は難しいのが放送大学と聞いているので頑張って勉強しよう。

#041024

頭良……

ボクはそこそこにガジェットというかプロダクトオタクだ。
とはいえどひっきりなしに買い集めるほど資金力があるわけではないので、吟味を重ねてこれだ!という一品を買い大切にするタイプ。買ったあと長く使う場合もあれば、他の品に興味が出る場合もある。

現在、もっぱら興味があるというか一度使ってみたいと思っているのは、レバーレスのアーケードコントローラー(アケコン)の PUNK WORK SHOP だ。

プロゲーマーの愛用者も多いデバイスで、ボタンに縁があるため弾き入力がしやすいとか色々理由はあれど、この薄さに加え天板面を自由にカスタム(印刷した紙を挟める)というのが、すこぶる気になっている。
上の写真はUltra Boxという少し大きめのもののカスタム天板モデル。くわえてボタン配置がまだ加わって新しいレイアウトDタイプで、元々の商品人気もあることにくわえ生産がはじまったばかりのために在庫切れが続いている。(Dタイプは2024年の夏頃から販売開始)
価格はPC専用が¥35,980とPS5対応が¥50,980円と安くない。安くないのだけどボクは天板に好きなイラストをカスタムできて、高性能なアケコンというだけで惜しくないと思ってしまっている。しかし入手が困難。

なら作ればいいんじゃない?となるのは道理だ。
普通に考えればPUNK WORK SHOPボタンも売っているし、基盤もRaspberry Pico GP2040で組めばいいだけだ。それはそう。
問題はPUNK WORK SHOPは前傾斜があることだ。

アクリル製のレバーレスケースはいくつか有名な販売者がいてBooth(くろまき工房さんとか)などで販売されいてる。ただどれも前傾斜がなく四角いボックスの形状となっている。アケコンは膝置きが主流のためなのか、もしくは前傾斜の角度で好みが出るのを嫌っているのだと思う。
しかしボクは机に置いてやりたい派なので、極力薄型で前傾斜というPUNK WORK SHOPの形が理想。もちろん当たり前のように図面がその辺にころがっているわけではなく、アクリル裁断を依頼するときにだいたいの傾斜角度を設計するしかないと思っていた。

そんなある日、メルカリにどうみてもPUNK WORK SHOPみたいな形のアケコンが販売されていた。しかもちゃんとPUNK WORK SHOP正規品のように天板がマグネットで外せる機構になっている。
「な、何…っ!この人一体どうやってこの設計と仕組みに辿り着いたんだ」
そう思ったボクは他の写真を舐め回すように確認。「なんという再現度。完璧にかなり近い。素晴らしいな…」と感嘆のため息と共に眺めた。

PUNK WORK SHOP ボタンサイズ

PUNK WORK SHOPのボタンはネジ止めのものと薄型のひっかけタイプの2種類がある。ネジ止めタイプはその構造上ボタンに厚みがでてしまうため、薄型のアケコンを作る場合は薄型ボタンのひっかかりに適応した厚さの天板設計が必要不可欠というのも一つのハードルだった。ボタン自体の図面はAliexpressに掲載されているけれど、天板留めに必要な厚みだけは数値表記がない。
また正規品の天板カスタムモデルは、2枚のアクリル板が合わさっていて間に紙がはさめる。これも厄介なことに2枚の天板上下で微妙に穴の経が異なるらしくΦ25mmとΦ24mmで穴があいていると動画で紹介されていた。どちらにせよ紙を挟んで2枚のアクリル天板の厚みがボタンの引っ掛かりピッタリと設計できないとボタンの固定ができないため、ボタンを先に買ってノギスで採寸の必要がある。

結局この辺りの設計が結構な手間となるので、もう正規品買ったほうが良いよねと結論づけてしまっていた。しかしそれをものともせず模倣品を設計・販売しているなんて、何度試行錯誤したのだろう……なんて強者だ、と深く感心した。
これは他の出品物に何か製作に辿り着くヒントがあるのではと思い、過去の販売一覧を見るとPUNK WORK SHOPの模倣品の中に正規品が1つだけ並んでいた。

「……あっ!」

こ、こやつ正規品を採寸して……!しかし頭良……!
いやいや著作権とか道徳が遥か彼方の路上に置き去りで放置プレ……
というかなりもんやりする物を見てしまった。

#031024

地球の温度は昔から激しく変化しており、人類誕生後だけを見ても、海面が現在より30メートル以上高かった高温期が何回もあった。
北極の氷はなかった時代の方が長いし、北海道にもサンゴ礁の化石がある。
多くの人々が「普通の状態」と思っている気温は、地球の歴史から見れば瞬間的な、たかだか過去200年程度のものにすぎない。

日本人が「日本人の利益はヨーロッパ人と共通だ」と考えて温暖化防止をするのは勝手だが、それは決して「地球のため」ではない。

政策研究大学院大学教授・岡本薫

個人的に地球に優しくという標語が嫌いではない。
嫌いではないのだけれど、だからといって「地球に優しくするから人間には厳しくいくよ。覚悟してよね!」ってのは違わないか?と思う。

「お涙頂戴!地球に優しくしてるんです私達頑張ってるんです!その活動にお金がかかるんです!温かい支援を!」はただの感動ポルノだしビジネス。
それで潤う人がいて、そこにお金を払うことで満足を得れる人と企業いがいるのもわかる。
その輪の中で完結してるならどうぞ好きにしてくれればいい。
ただその輪を勝手に広げてもっと儲けたい!ウマウマしたい!ゲロシャブしたい!なんてのは、許容できないし、弁えてろとなる。

環境保護や大気汚染云々で活動するなら、お隣にある大陸の大きな国でその活動すればいい。
なんせCO2排出だけみても世界No1の10,648.5tでぶっちぎりだ。2位のアメリカ4,549.3tとダブルスコア差だ。(キッズ外務省 二酸化炭素(CO2)排出量の多い国
環境庁の資料だと2020年の時点で31.4%で圧倒的。日本は3.1%。

CO2の他にも、みんな大好きリチウムも少し前に「廃棄方法が問題になる」と警鐘ならしてた研究があったけど、しっかりめに踏み潰され、今じゃEVモビリティやらなんやらで溢れている。出口の問題が解決してないのに供給増やすのが実にお隣さんっぽい。

だめになったら次のことをすれば良い。
悪影響なんて知ったことじゃない。
そんなビジネス思想で「地球に優しい」なんて烏滸言以外のなんだというのか。

あと安全な場所で平和や環境保護の抗議活動してるのも吐き気がするほど嫌い。
人間の欲望が丸見えで悍ましさと醜悪さの坩堝。
早く宗教は承認欲求を大罪認定しろ。

#021024

モスバーガーのチリドッグを見ると思い出す

「太平洋を見てみたい」

高校を卒業後、全国に支社を持つくらいには大きな会社に入社したボクは、生まれ故郷のモモタローランドから遠く離れた東北への赴任を命じられた。はじめこそ「なんでやねん。嫌がらせすぎる」という気持ちが強かったものの、住み始めて二ヶ月後には「仙台最高やっほーい。ボクここに骨を埋めます」と東北大好きな人間になっていたのだが、それはまた別の話だ。

赴任後は会社の独身寮に入寮した。
独身寮には年齢制限があり、数年後にはトコロテンのように強制的に退寮する必要がる。結果として歴代の先輩方の使用物が置き土産のようにいくつか残っていた。
古びた自転車もその中にあった。

寮母さんに尋ねると直せるなら自由に使って良いとのことだったので、近所の自転車屋に持ち込み注油などのメンテナンスを受けると快適に利用できるようになった。これで行動範囲が広がるぞーと週末はあてもなく仙台市内を北へ南へとブラブラ行動するようになった。

ボクは今も変わらないが用もなく本屋に立ち寄る程度には、本屋が好きだ。
この当時は携帯電話もまだ浸透しておらず、ポケットベルが全盛期の時代。当然GPSによる地図といったものはないため、現在地を知るには紙などの地図を広げる必要があった。
週末の金曜日、書店の中をブラブラしていると地図が目に入った。あまり気にしていなかったが、そもそも今自分はどこに住んでいるのかを調べてみると、宮城県は縦に細長く、仙台市から少し東側にいけば太平洋になっていた。

「これは自転車でいけないだろうか?」とふと思った。
仙台駅から海近くの塩竈市まで尺図を指で図ると20kmはないようだったのと、道も国道45号線から一本道でこれならば地図がなくても辿り着けそうに見えた。
幸い翌日の天気は晴れだったので、早速自転車で小さな旅に出ることにした。


朝食用に用意されている炊飯器からおにぎりを2つ作りお弁当にした。
9時に出発したものの、塩釜市にはお昼を大きく過ぎころに到着。道中は土地勘もない地名もわからないとないないづくし。当然方向も現在地もわからず道に迷い、東に進んでいたはずが何故か西に戻っていたりと散々だった。通ゆく人に「あの海はどちらの方向ですか?」と訪ねる頭のおかしな人ギリギリな手前の行動でなんとか辿り着いた。

そのおかげではじめて目にした太平洋は忘れられない光景になった。
とはいえど見渡す限り水平線といった光景ではなく、どちらかというと故郷で良くみるような海の先に小さな島が連なったような景色。それが期待外れというわけではなく、遠く離れていても故郷と同じような景色が見れたことが懐かしさを覚えると同時に寂しさを解消してくれた。何だかんだで一人知らない土地に放り出され、やはりどこか寂しさを覚えていたんだと頭が理解した。

しばらく海を堪能後、帰路についた。
帰りは楽というかどこへいっても「仙台」への案内標識があったため迷うことはなかった。
そうして夕方も近づき薄暗くなり始めたころ、道路沿いのモスバーガーで「チリドッグ」を購入。暗くなりはじめていたので道が見えなくなる前に少しでも知っている場所まで戻れるよう、自転車に乗りながら食べようと考え思い持ち帰りにした。

実はそれまで自分の人生でモスバーガーを食べたことが一度もなかった。
高校時代に友人とモスバーガーに行く機会は何どもあったが、月の小遣いが3,000円でわずかでもゲームセンターのゲームで遊びたいと思っていたので、付き合いで行っても水しか飲んでいなかった。友達が美味しそうに食べるのを何度も見ていたので、モスバーガーを見て「そうだ、せっかくだから食べてみよう」と思ったわけだ。

だから持ち帰りも店内飲食と同じく紙の袋に入っているものだとばかり思っていたら、プラスチックの上下に分かれる開閉トレーだったことにまず驚いた。そして悪銭苦闘しながらなんとか蓋を外し下蓋に重ねる。そうして透明な薄い紙を手前に持ち上げ、チリドッグをかじれるようにセット。
そして「いざ、頂きます!」と口をあけた瞬間、自転車の前輪が歩道の大きな段差で跳ね上がり、両手の肘でハンドルを操作していたボクの手に突き上げるような衝撃が加わった。

ガンッ
「あっ!?」

手を汚さないようにと両手でトレーを支える形で持っていたこともあり、フリーになっていたチリドッグは慣性の法則に則り前方に放り出され、綺麗な放物線を描きながら地面に着地。
直後に前輪と後輪で轢き潰された。

慌ててブレーキを踏んで後ろを見ると無惨な姿になったチリドッグだった物が見えた。
ご飯を失った落胆、悲しみから「どうしてせめて停車して食べなかったのか」という自らの愚かな行為とアホさに自分を責め立てた。しかも手持ちのお金はチリドッグを買って尽きてしまっていて残り数十円だったこともあり、寮まで空腹のまま自転車を漕いで帰るはめになった。


あの時のひもじさとアホさと愚かさは今でもモスのチリドッグを見るたびに苦い記憶として思い出す。人間は愚か。


#011024

何かを失わないために、何かを我慢する

町を歩けば午前中から飲んでいる人を見かける。
羨ましいという気持ちが湧き上がる反面、果たして自分は「今日は1日何してもしなくてもいいから、朝から飲んでもいいよ」と言われて飲むだろうか?

たぶん飲まないだろう。
もちろん錯覚なのだけど、飲むことによって制限される行動が増え、その制限される行動が増える感覚が「失う」ことのように感じてしまう。
2つ目の理由にお酒は弱い心にスルスルと入り込み堕落させてしまうからというのもある。
そして3つ目の理由は全く根拠がないものの、ボクはお酒を飲むと食欲がでて過剰に食べてしまうので太るというのもある。

とても死ぬほどバカらしいと思う。
一番賢いやり方は数ヶ月間自分を追い込むレベルで食事制限をかけて摂取カロリーを減らし、毎日歩き、少しでもいいから筋トレをする。そんなダイエットをすれば良いだけだ。
ここ3年ほど「なんとなくダイエットを続けている」という無駄な食事制限をかけているような気持ちだけを持ったままになっている。本当に愚かだ。
一度ちゃんと理想の体重にしてから、その時になってあらためてどうするかを考えれば良い。

「失う」ように感じるというのは停滞しているということでしかない。敗戦が見えてきているから被害を減らそうとか、坂道を登っているときに立ち止まるような感覚と似ている。「失わない」を解決する行動は「我慢する」「耐える」の防御ではなく、「何かを新しく得る」といった攻撃的・積極的な行動だ。
ゴールは歩いていくことでしか近づくことはできない。

そんな振り返りと今日からでも頑張るぞの気持ち。
お願い腹筋ローラーとリングフィット。
筋トレから逃げるな。

#280924

うつ病にPowerWash Simulatorが効くらしい

『パワーウォッシュシミュレーター』が“メンタル改善に効果あり”との研究結果。たった15分の洗浄没頭で気分が上がる」という投稿がXで話題だった。
記事を読むと1日15分のプレイでうつ病に改善が見られるとある。

とはいえど、そんなことするくらいならボクは部屋を掃除・整理すればいいのでは?と思う派。以前そちらも改善に効果があるといわれていたし、部屋が綺麗な状態の方が気持ちは良い。画面の中で時間をかけて綺麗にしても、画面の外が汚かったら元の木阿弥では。

そんなわけで今日はいつも以上に部屋を掃除をした。
押入れの中で適当に積んでいた空き箱を取り出してから積み直し、引っ越して以来数年使っていないホットプレートも粗大ごみに出した。
さらに衣装ケースも全部ひっくり返した上で丁寧にたたみなおし、首元がよれているものは捨て、ユニクロの商品はリサイクルボックスに入れる準備をする。
本棚の上も雑巾をかけ、加水分解していたねんどろいども分解して清掃した。

昼から始めて夕方までしっかりと部屋を片付けたので、流石に気分が良くなった。
ほんとうは仕事をするつもりだったけど、そんな日があってもいい。

#250924

過去のキャンプで、一番「あぁ、これは良いな……」と感じたのはどこでキャンプをしたときだろうかとよく考える。そしてだいたいいつも真っ先に思い浮かぶのは、初めてのソロキャンプという補正も加わる「グリフ前日光」になる。やはりどの経験でも初めての補正は強い。
グリフ前日光は鹿沼市の山奥深くの川沿いにある静かなキャンプ地。その日は利用者が3組と少なかったこともあるけれど、設営後にすぐに降り始めた豪雨により雨天キャンプとなったことがとても良かった。

雨がテントとタープを叩く音。
タープの端から落ちる雫の音。
テントとタープで雨の中から空間を切り取っているような感覚。
他のことでは得られない、なんとも言葉にできない充足感を与えてくれた。

その時の投稿でも紹介した、「その時私は思ったのです。完全なる雨具、それは “家” なのではないかと…」という誰かのつぶやきは、今でも雨が降ると考える言葉だ。
家という完全な雨具よりも、雨と自分の境界を強く感じる雨天キャンプの不自由さと閉塞感が恋しく思えるのははどうしてなのだろうか。

とはいえどわざわざ雨の中バイクで出かけてキャンプをしたいとは思わない。
もし車があれば雨の中でキャンプをする回数は多いかもしれない……現実的な問題は駐車場代が出せるほど資金に余裕がないから無理なのだけれど。