#211125

今日の笑ったtumblr。

デーモン閣下はかつて生放送中、交通情報アナに「連休のさなかキミは仕事をしているわけだが、行楽帰りの渋滞に捕まっている連中をどう思う?」と振ったことがある。交通情報アナが「ざまあみろと思います」と答えてしまい始末書を書かされる羽目に。さすが悪魔。

Twitter / _zahir

昔バイト先の非モテ系の社員がめちゃくちゃ綺麗な女の人を連れて休みの日にバイト先に遊びに来た事があって聞いたら案の定アムウェイでその女の人がちょっと安室奈美恵に似てたから「あのアムロナミウェイとは仲良くやってらっしゃるんですか?」って訊いたらめちゃくちゃシフトを減らされた事がある

Twitter / djkakihara (via chptr22)

なるほどなーも一つ。

中東の昔話です。
昔、年老いたアラブ人が、自分の死期をさとり、三人の息子を 枕元に呼んで言いました。
「私が死んだら、私のラクダの半分は長男に、三分の一は次男に、 そして、九分の一を三男にゆずる。」

それから間もなく、父親は亡くなりました。
ところが、父親の所有 していたラクダは十七頭だったので、どう考えても十七頭のラクダを、 二分の一、三分の一、九分の一に分けることができません。 とうとう、どのように分配するか、三人の兄弟で言い争いが始まりました。
そこへ、一人の旅人がラクダに乗ってやってきました。
旅人は、 兄弟のケンカの理由を聞いて、 「そうか、それなら私のラクダを差し上げましょう。そうすれば 分けることができるでしょう。」 と言いました。

なるほど、旅人のラクダを足すと十八頭となり、長男は半分の九頭、次男は三分の一の六頭、三男は九分の一の二頭をもらい、みごとに ケンカは丸くおさまりました。旅人は、 「よしよし。では、最後に残った一頭は、わしがもらって行こう。」 と、自分の乗ってきたラクダに乗って、去っていったそうです。

計算の合わないはずのものが、一頭のラクダを加えることによって 計算のあう、おもしろい話です。 一頭のラクダを加えることによって、十七頭のラクダを二分の一・ 三分の一・九分の一に分けることができ、さらに一頭余った、 という、パズルのような問題は、どうしてこうなるのでしょうか。

算数の問題として考えると、二分の一・三分の一・九分の一を 足すと、答えは「十八分の十七」となり、分母を十八にすることに よって、二でも三でも九でも割り切れ、さらに十八分の一が余る、 ということなのです。

ところが、息子達は割り切れない十七という数に固執し、また、 ほかの兄弟が与えられた以上にラクダをもらわないようにと、 こだわったがために兄弟のケンカとなったのではないでしょうか。

ラクダを切り裂いて分けたのではなんにもならないのですから、 もし、長男が二分の一に少し足りない八頭で我慢をし、同じように、 次男は五頭、末っ子は一頭で我慢をすれば、残ったラクダは 三頭になります。これを兄弟仲良く一頭ずつ分けたら、長男は九頭、 次男は六頭、三男は二頭となり、同じ結果となるのです。

「兄弟仲良く、力を合わせて」という遺訓では、毛利元就の 「三本の矢」の話が有名ですが、このアラブの昔話も、考えように よっては同じ意味の遺訓ともとれます。

私たちの生活においても、似たようなことはないでしょうか? 「こうあるべきだ」と思いこんでしまうと、ほかの考え方ができなく なってしまって、無用の摩擦を生じさせることは多々あることです。 そんな時に、ちょっと離れて考えてみると、意外とすんなり物事が 解決したりするものです。

千利休の逸話とされる、次のような話があります。

晩秋のある日のこと、弟子の一人が庭の掃除をしていました。 弟子は、一枚の落ち葉も残さないように、きれいに掃除をすませ ました。千利休は、その庭を見て、 「まだ掃除はおわっていない」 と、掃き終わったばかりの庭に数枚の落ち葉を散らしたそうです。

落ち葉をきれいに掃除し、ほうき目の通った庭は本当にきれいな ものですが、あまりにも整いすぎているのもなにか窮屈なものです。 そこに数枚の枯れ葉を散らすことによって、なんともいえない 「ゆとり」が生じることでしょう。

私たちも、物事を几帳面に、真面目に考えすぎ、自分自身で 行き止まりの袋小路をつくっていることは意外と多いものですが、 そんな自分の心に気付くことは、なかなか難しいことです。

そんな時、相手の心を思いやるなり、少し自分が損することを 考えるなり、数枚の落ち葉を散らす工夫をすれば、もっと広い 世界が見えてくるのではないでしょうか。

「丸い卵も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ」とか 言いますが、ひとつの思いに固執しない、柔軟な心を持ち続け たいものです。

法話 | 曹洞宗 善昌寺 広島県府中市

そんな日もある。

#221025

今日のtumblr。

じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。
ばあちゃんはボケが進んでた。
じいちゃんが介護してた。
いろいろ大変だったみたいだけど、会話はできているようで、人が思うほど大変じゃないよって言ってた。

ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に書かれている。
「冷蔵庫は閉めましょう」
「電気は消しましょう」
「トイレは←」
「ふく、くつした↓」とか、
いろんな字がじいちゃんの手で半紙に筆で書かれていた。
書いてあれば守ってくれるんだって。

じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、
どうしても区役所とか病院に薬をもらいにとか出かける事がある。
心配だけど「外には出ないこと」と玄関に書いておけば、
大人しく待っていてくれたんだって。

ある日、じいちゃんが出かけた。
もちろん玄関には「外には出ないこと」
それなのにじいちゃんが戻ってきたら、ばあちゃんは家のすぐ前で車に轢かれてしまっていた。
救急車で運ばれた。

じいちゃんが駆けつけると、待っていたかのようにじいちゃんの手を強く握って天国へ行った。
じいちゃんはとても悔やんだ。
家族全員も悔しかった。
今まで書いてあることは必ず守ってたのになぜ家を出たんだろう。
家族同然の付き合いをしていた隣のおばちゃんが話をしてくれた。

事故の直前、急に雨が降ってきた。
おばちゃんは布団を取り込みに庭に出た。
すると、ばあちゃんが傘を持って慌てて道路に出てきた。
ばあちゃんの病気をおばちゃんは知ってたから、心配になってばあちゃんの方へ向かったその時に事故が。

じいちゃんが勤めていた頃、ばあちゃんは雨が降ると必ず駅までじいちゃんを迎えに行ってた。
ちょっとでも雨が降ると必ず迎えに行ってた。
雨を見て、じいちゃんが家に居なくて、傘を持っていこうとしたのだろう。
それだけ、じいちゃんが好きだった。

じいちゃんもばあちゃんが好きだった。
じいちゃんもしばらくして病気で天国へ行った。
ばあちゃんが持っていた傘と一緒にお墓に眠っている。
じいちゃん、ばあちゃん達は幸せだったんだろうな。

ニュースやSNSは悲しいことや怒りを煽ることが多くなりすぎた。
だからせめてこんなネットの片隅blogでくらい、世界にはまだまだ優しい投稿があるってことを残し続けていきたい。

C.ヴァイパーを触ってみる

Year3パスを購入しているのでC.ヴァイパーのコンボトライアルを触ってみる。
いや難しすぎるな、これ。
ただでさえ押して離してが苦手なボクには難しすぎる。

そもそもレバーレス操作も下手になりすぎているので、またしばらくリュウのコンボを練習。
なんでかわからないけど反応できるようになっていたのは、インパクト。
たぶんナイトレインで相手を見るってことを意識するようになったせいだな……。

#211025

今日のtumblr。

人生を線ではなく環ととらえてみてください。
生活は劇的には変わりません。
毎日のサイクルが少しずつ、変化していくだけです。

長くまっすぐな道をたどる旅ではなく、このくりかえす毎日を、日々どれだけ理想に近づけていけるかです。

理想の一日はどんな一日ですか?
何を習慣としてつづけている自分がいますか?
一日の終りに、どんなことを喜んでいますか?

きっとその方がイメージしやすいはずです。
イメージしやすいものの方が、つづけられるものなのです。

ダイエットも同じで痩せたい→ここでカロリーを制限してというスポットで気にしてきたけれど、結局こういう少しづつ痩せていく習慣をつけることが一番大事な気がしてきている。
よくやりがちなのは意欲があるときは「筋トレしないと」と頑張るのに長続きしないとかがある。
年を取るにつれ代謝が落ちていくので筋トレが一番効果があるのに、辛さにかまけてサボってしまうのが良くない。
あとやっぱり思ったのは、よく言われる「体重計に毎日乗るのはメンタルが削れるからやめたほうが良い」は正論ではあるけど、努力し続けている場合に限る。
サボってる場合アラートが鳴っているのをミュートしている状態なので余計たちがわるくなる。

成績判断を長めのスパンで見るようにしたい。(2週間後と比較するとか、1ヶ月後に結果がでているか)

急に寒くなったので風邪をひいた

この日は昼から体調が悪くなり、帰宅途中は「モームリモームリ」と思いながら帰宅。体調が悪いし雑炊にしようと思っていたけど、先日Youtubeで見た「なめこのクリームソースパスタ」用に絶対に備蓄しないイタリアンパセリ・生クリーム(高かったので植物性フレッシュにした)に加え、「きのこパスタなら鮭があわないわけがない!」とほぐし鮭身の瓶詰めを購入していたのを思い出し、パスタを調理。

オリジナルだぜ!とエリンギ・しいたけ・しめじも入れたらきのこから水がですぎて鍋肌に焦げができなかった。
とはいえど出来上がったものは動画で想像していた味だったので満足。お手軽で美味しかった。

ちなみに動画のコメントで「給料日前に生クリームだの白ワインだのパルミジャーノだのあるんだったらもう俺の給料日前とは違うんだよ」が好き。
ほんまそれ。生クリームなんて備蓄してない。

その後は葛根湯飲んで早めにお布団へ。
おやすみ、世界。

#190925

今日のtumblr。

私は道を譲る側の人間です。

人に迷惑をかけたり、嫌な気持ちにさせないように、と知らない人にも気を遣って生きている。その感度が似ている彼との暮らしは毎日過ごしやすい。例えば、ラストオーダー10分前のお店には行かない。車内の混み具合では全然離れて良い。探し物はできるだけ自分たちで見つける、店員さんに尋ねない。

己の労力以上に、他人の労力が負担になる性格なんだと思う。

最近こんな本を読んだ。

“親切に感謝はいらない。なぜなら親切は当たり前なのだから”

確かに私もこの世界線を目指したい。これは善の目線(助ける側)だが、助けられる側の目線から見ると親切→迷惑に置き換えられないだろうか。

迷惑をかけるのは当たり前。迷惑をかけられた時、救いの手を差し伸べれば良し。

要はお互い様ってこと、私の生き方よりよっぽど生きやすそうだ。本当はラストオーダー10分前でもその日行きたかったお店があったし、降りたい駅で一言声掛けしてもらえた方が周りを気にしなくて済むし、探し物はさっさと見つけたい。

既にこの生き方をしてる人はいるけど、私はきっとそいつをあんまり好かんだろう。好かない人になれないから、今の自分なのか。

本当に世界がまとまったら、それはそれで困ることになるな。

自分が頭を殴られたように思った出来事の一つに、関東人には「これは貸しですからね」と言わないと貸しと認識しないんじゃないか?ってのがある。
お相手の関東人は「自分は貸しをよく作っているけれど、相手からは何も返してもらっていない」とよく言っていて、よくよく聞いていると「これは貸しですからね」と毎回言っているとあった。

ボクはそれを聞いて以来、「関東人と関西人って根底のこういう価値観が合わないんだな」と思った。そんな渡世の義理人情の貸し借り、恩を受けた、与えたなんて口にすることは野暮ってもんだし、無粋で憚られるものだろう?京都人なら「さすが東夷の方々はきちんとされてはる」と切り捨ててそう。

公共の場で弁えて行動をするのに理由はいらない。
何でもかんでも理由をつけて、「そうしなければならない理由」を探さなければいけないなら、その人は「そうすること」に向いていない。何故なら理由を探している時点でそれがストレスだからだ。

tumblrの話でいえば、お互い様であることは認識した上でどちらの我を通すかだ。
例えば閉店10分前についてしまった。どうしても行きたかったのにと思ったのであれば、声をかけて相談すれば良い。何も言わず立ち去った自分はなんて思いやれる人間だろうというのも、悪くはないけれど、そういう「自分はなんて素敵な人間なんだろう」という思考が生み出すのは、相手から理不尽な無礼を働かれたときに気分を害しやすい。
例えばこのケースでいうと、立ち去ろうと踵を返すと、すれ違いであとから歩いてきたお客さんが店のドアを開け中に入る。その時、店員さんが明るい声で「いらっしゃい」と言ったのを聞いてしまった。
おそらくそれでその人はその店を嫌いになる。
「なんだよ、せっかく自分が気を利かせたのに」という感情が湧くだろう。

お互い様プロトコルの根底にあるのは、「情は人のためにあらず」というものだ。
自分が撒くよりよき社会のための種を踏み荒らされて良い気分がするわけがない。
しかしそれでもこのプロトコルは、多くのときに円滑に機能する。
だからたまたま種が芽を出さなかったことを、「そんな日もある」と思える人間になれば良い。

道を譲る人間です。なんてのは「自分は親切な人間だから、相手からも親切にされるべき人間です」と公言しているのに近い。思うのは自由だし、考えることも自由。
けれども自分がしたことが相手からも必ずしも返してもらえるとは限らない。

「親切に感謝はいらない。なぜなら親切は当たり前なのだから」というのは言い換えれば「親切は、相手が親切にされたと感じてもらえないなら、相手はそれを親切と感じていない」だ。
残るのは親切をした側の「私はあの人に親切をしたのに」という悪感情だけ。

そういった思考なら、そもそもボクは相手に親切にしなければ良いのにと思う。金の貸し借りと同じで、「貸した側は覚えているのに、借りた側は忘れる」に通じる。

正しき人、善い行いをする人が必ずしも幸せになれるわけではない。
ただそういう人の方が確率的に良い目にあえるというだけだ。
本当に、ただそれだけのこと。

ボクの場合は、自分の価値を社会的に0と考えているから、道を歩いている他の人の方が社会的価値が高いと思っているというクソみたいな思想。路傍の石が道の真ん中にいたら蹴られてしまうから、はじめっから道路脇にあったほうが蹴られない。
極力誰の邪魔にもならないようにスルスルと避けて生きていたいだけ。
「邪魔だな」って思われるよりよっぽど良いから、迷惑にならないような行動をする。それが道徳的な倫理観に基づいているだけだ。

そういえば渋谷で8年間も空き缶掃除をしている人がいるけれど、あんな人にも暴言お気持ちしてる人がいるんだなーって驚いた。最近の空き缶はSNSにお気持ち投稿できるLPWAを搭載してるんですね。

#070725

今日の。

私が考えているのは、勉強に対するアプローチの違いです。

坂を登るのに、男坂・女坂というのをご存じでしょうか。
男坂は急な坂を一気に登る道、女坂をなだらかな道をくねくねと時間をかけて登る道です。
最短の道をがんばって上るか、時間をかけても楽な道を行くか、です。

私の言うアプローチは「女坂アプローチ」なのです。
これまでの勉強法本というのは、すごい努力量を前提としたものが多くて、一種のスポ根の世界といいますか、「そりゃあそれだけ勉強したら上達するにきまってるじゃん」というようなものがよくあったと思うのです。
ですが、体質的にそういうがんばり方をすることができない人が多くいることも経験上知っています。ですので、「効率は多少落としても、その過程をあまりきつくなく、ある程度楽しいものにし、長く続かせることによって結果的に高くまで行ける」というアプローチも有効ではないでしょうか。
もちろんTOEICは短期集中のほうがいいことも知っていますが、英語の上達としては、そういう女坂アプローチもありではないかな、と思います。
この考え方は、井上大輔氏の「捨てる英語」というコンセプトではじめて触れました。
つまり、「わざと効率を落とすことで長続きさせる」ということも大事だということです。

英語学習法を考える:TOEIC990を超えて

DUOLINGOもこの系譜だと思うのだけれど、無課金だと間違えれる上限(ハート)があり、上限にひっかかると未達成となる。問題が少なく難しくないうちならば良いけれど、あとになるにつれ難しくなり、設問数もふえるためハードルが高くなる。
この上がりづけるハードルを自分でコントロールできないため、2年ほどつづけたある日、連続未達成で連続記録がリセットされやる気が粉々になった。
あのとき覚えた悪感情が妙に深く突き刺さり、以来なんというかやるたびに歯茎むき出しの難題連続ハートガン削りにイライラはしてしまう。

2回同じ問題を間違ったときは、一旦ハードルを下げて欲しい。しかし現実は「課金しないお前が悪い。ここで死ね!」と終了か課金しろの画面。
「はーゴミカスー」とレッスン終了しようとすると「待っていかないで!🥹」は煽りじゃないならなんやねん。死なす。
ビリーブートキャンプばりに「You can do it! you can do it! come oooonn!!」は鬱陶しいねん。

このあたりの顔文字煽り含めて、実に海外製という感じがする。利用者に寄り添わない。
「マウスの左ボタンで弾がでるよ!ハハッ!」に通じる。
もちろん勉学は贅沢なので無課金の自分が悪い。
ままならないね。

#110525

今日のtumblr

『007は二度死ぬ』(You Only Live Twice)は、イアン・フレミングの長編小説。
原題はフレミングが来日した際に「松尾芭蕉の俳句にならって」詠んでみたという英文俳句「人は二度しか生きることがない、この世に生を受けた時、そして死に臨む時」(“You only live twice: Once when you’re born, And once when you look death in the face.” – You Only Live Twice epigraph)に由来する。
また英語の慣用句「You Only Live Once(人生は一度っきり)」のもじりである。

映画小ネタ。
また無駄な雑学を脳に入れてしまった…。

もう20年以上もまえに僕が見出した法則の一つに、「悩んでいる人は、解決方法を知らないのではなく、それを知っていてもやりたくないだけだ」というものがある。方々で何度も書いたり話したりしている。

悩んでいる人を揶揄しているのではない。
人間というものは、自分のことを一番よく考えている。
貴方のことを一番考えているのは貴方なのだ。
これは例外なくすべての人に当てはまることだろう。 

どうすれば良いのかは、わっているけれど、その方法を素直に選択できない状況下にある。だから悩むのである。

解決の方法がないわけではない、というのが、この法則の意味だ。
道に迷っているのではない。
道は目の前にあるけれど、なんらかの理由でその道を通りたくないのである。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.109

人生の悩みの多くは金銭理由が多い。
例えば旅行であれば「行きたい気持ち」と「必要な旅費」の天秤だ。
しかし悩み、選ぶからこそ人生は楽しいとも言える。

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