#190925

今日のtumblr。

気にしすぎないように

私は道を譲る側の人間です。

人に迷惑をかけたり、嫌な気持ちにさせないように、と知らない人にも気を遣って生きている。その感度が似ている彼との暮らしは毎日過ごしやすい。例えば、ラストオーダー10分前のお店には行かない。車内の混み具合では全然離れて良い。探し物はできるだけ自分たちで見つける、店員さんに尋ねない。

己の労力以上に、他人の労力が負担になる性格なんだと思う。

最近こんな本を読んだ。

“親切に感謝はいらない。なぜなら親切は当たり前なのだから”

確かに私もこの世界線を目指したい。これは善の目線(助ける側)だが、助けられる側の目線から見ると親切→迷惑に置き換えられないだろうか。

迷惑をかけるのは当たり前。迷惑をかけられた時、救いの手を差し伸べれば良し。

要はお互い様ってこと、私の生き方よりよっぽど生きやすそうだ。本当はラストオーダー10分前でもその日行きたかったお店があったし、降りたい駅で一言声掛けしてもらえた方が周りを気にしなくて済むし、探し物はさっさと見つけたい。

既にこの生き方をしてる人はいるけど、私はきっとそいつをあんまり好かんだろう。好かない人になれないから、今の自分なのか。

本当に世界がまとまったら、それはそれで困ることになるな。

自分が頭を殴られたように思った出来事の一つに、関東人には「これは貸しですからね」と言わないと貸しと認識しないんじゃないか?ってのがある。
お相手の関東人は「自分は貸しをよく作っているけれど、相手からは何も返してもらっていない」とよく言っていて、よくよく聞いていると「これは貸しですからね」と毎回言っているとあった。

ボクはそれを聞いて以来、「関東人と関西人って根底のこういう価値観が合わないんだな」と思った。そんな渡世の義理人情の貸し借り、恩を受けた、与えたなんて口にすることは野暮ってもんだし、無粋で憚られるものだろう?京都人なら「さすが東夷の方々はきちんとされてはる」と切り捨ててそう。

公共の場で弁えて行動をするのに理由はいらない。
何でもかんでも理由をつけて、「そうしなければならない理由」を探さなければいけないなら、その人は「そうすること」に向いていない。何故なら理由を探している時点でそれがストレスだからだ。

tumblrの話でいえば、お互い様であることは認識した上でどちらの我を通すかだ。
例えば閉店10分前についてしまった。どうしても行きたかったのにと思ったのであれば、声をかけて相談すれば良い。何も言わず立ち去った自分はなんて思いやれる人間だろうというのも、悪くはないけれど、そういう「自分はなんて素敵な人間なんだろう」という思考が生み出すのは、相手から理不尽な無礼を働かれたときに気分を害しやすい。
例えばこのケースでいうと、立ち去ろうと踵を返すと、すれ違いであとから歩いてきたお客さんが店のドアを開け中に入る。その時、店員さんが明るい声で「いらっしゃい」と言ったのを聞いてしまった。
おそらくそれでその人はその店を嫌いになる。
「なんだよ、せっかく自分が気を利かせたのに」という感情が湧くだろう。

お互い様プロトコルの根底にあるのは、「情は人のためにあらず」というものだ。
自分が撒くよりよき社会のための種を踏み荒らされて良い気分がするわけがない。
しかしそれでもこのプロトコルは、多くのときに円滑に機能する。
だからたまたま種が芽を出さなかったことを、「そんな日もある」と思える人間になれば良い。

道を譲る人間です。なんてのは「自分は親切な人間だから、相手からも親切にされるべき人間です」と公言しているのに近い。思うのは自由だし、考えることも自由。
けれども自分がしたことが相手からも必ずしも返してもらえるとは限らない。

「親切に感謝はいらない。なぜなら親切は当たり前なのだから」というのは言い換えれば「親切は、相手が親切にされたと感じてもらえないなら、相手はそれを親切と感じていない」だ。
残るのは親切をした側の「私はあの人に親切をしたのに」という悪感情だけ。

そういった思考なら、そもそもボクは相手に親切にしなければ良いのにと思う。金の貸し借りと同じで、「貸した側は覚えているのに、借りた側は忘れる」に通じる。

正しき人、善い行いをする人が必ずしも幸せになれるわけではない。
ただそういう人の方が確率的に良い目にあえるというだけだ。
本当に、ただそれだけのこと。

ボクの場合は、自分の価値を社会的に0と考えているから、道を歩いている他の人の方が社会的価値が高いと思っているというクソみたいな思想。路傍の石が道の真ん中にいたら蹴られてしまうから、はじめっから道路脇にあったほうが蹴られない。
極力誰の邪魔にもならないようにスルスルと避けて生きていたいだけ。
「邪魔だな」って思われるよりよっぽど良いから、迷惑にならないような行動をする。それが道徳的な倫理観に基づいているだけだ。

そういえば渋谷で8年間も空き缶掃除をしている人がいるけれど、あんな人にも暴言お気持ちしてる人がいるんだなーって驚いた。最近の空き缶てSNSで文字打てるんですね。