ココろにフレる #161227

早いものでもうすぐ2016年も終わってしまう。
去年の今頃にボクは何を考えていたかと思い返すと、今と同じようにすぎ去っていく日々を思い返していたのだと気づく。

今日は忘年会があるため電車で出勤した。
最寄り駅から目的駅に到着するまでの間、スマートフォンでTumblrを流し読みする。
するとその中でとても興味深い文章があったのだけど、とても古いアーカイブなので保存も兼ねて引用アーカイブさせて頂く。

元気というのは、ずいぶん便利なことばで、
とにもかくにも「元気」ならいい、ということで、
たいがいの人はなっとくする。

元気なら、それでよし。
ぼくも、そういうふうに思う。
悪いやつが元気だったら困るじゃないか、とか、
ただやみくもに元気というのもどうかと思う、とか、
考えなくもないけれど、
悪いやつも、ほんとうに元気なら、
いいことするんじゃないのかね、なんて気さえもする。

でもね、元気というのはどういう状態を言うのか、
説明できる人はいるだろうか。
辞書をひいてみても、
「元気」というものがあるらしいことは記されていても、
それが、どういうものなのかについては書いてない。

目が輝いているだとか、
ハキハキと声が大きく発せられているとか、
動きが機敏であるとか、
いろんなことは言えると思うのだけれど、
それも、なんとなく抽象的なんだよなぁ。

「元気になりたい」と強く望んでいる人は、
具体的に、どういうふうになりたいのだろうか。
オトナというものは、
無理やりに、決意だとか意志とかの後押しで、
「元気」のポーズをとることもできるので、
ますますほんとうの元気が見えにくくなる。
アントニオ猪木の「元気ですかぁあ!」のかけ声も、
ほんとの元気というものには見えない、残念ながら。

たしか、ずいぶん前の「ほぼ日」に書いてあったので、
憶えている人は憶えていると思うけれど、
この「元気」というものの、
目に見えるかたちで説明してくれた人がいた。
いま、もう全国的に大人気のスポーツ・トレーナー
ケビン山崎さんだった。
彼と初めて会ったときにたくさんの話をしたけれど、
なにより印象に残ったのが、彼流の元気の定義だった。

「お父さんと、こどもが公園を歩いているとするでしょう。
ふたりで水飲み場に向かっているとしたら、
お父さんのほうは、水飲み場まで直線的に、
最短距離を歩いていきますよね。
でも、こどものほうは、
先に、もう、走って水飲み場に着いちゃってて、
それでまたお父さんのところまで戻ってきて、
また水飲み場に向かっていく。
そういう動き方をするでしょう。
元気っていうのは、そういうこどもの動きです」

この話を聞いたときから、
ぼくはケビンさんの応援団になろうと思ったもんなぁ。
すごいイメージだと思ったもの。
どう?見えるだろう?
元気というものが、とっても具体的に見えるのだ。

これが、いまでも
ぼくの「元気」というもののイメージになっている。

自分が、精神的に疲れているときには、
答えという水飲み場に向かって、
ただまっすぐ歩こうとするお父さんになっている。
つまらない人たちは、
水飲み場への地図を広げては一日中確認している。
口うるさい人たちは、水飲み場の付近で騒いだら
迷惑をこうむる人がいるでしょうが、と文句を言う。
人の背中におんぶされて水飲み場に行こうとする人もいる。
じぶんの代わりに水を飲んできてくれという人もいる。

水飲み場であろうが、どこであろうが、
歩くこと走ることそのものを楽しんでいるような
こどもたちや、犬ころたち。
そういうもののような動きを、
じぶんもしていることがあるはずだ。
それこそが、元気というもので、
ぼくらがほんとうに求めているものの正体だと思うのだ。

あなたには、元気が見えましたか。

日刊ほぼイトイ新聞 2013-11-17

明後日、ボクは田舎に帰るために電車に乗る。
その道中を楽しもう。

そう思わされずには居られない、いい文章だった。

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