tumblrで目について面白い意見だなってtweetを見に行くと、リプライに大量の「わかりますぅー」ってのが一杯ついていたが、どれも「え、そうなの?」と思うようなものばっかりだった。
みんな正しくてみんな違っていいと思うことは念頭に起きつつ、ボクはこのtweetの「しなくてもいいけれど、あえてそれを実行することが自由だと感じる」という箇所に興味を覚えた。ボク自身は意識してこなかったけど、「なるほど、そういうことを自由だと感じることもあるのか」という、思いもしなかったことが言葉にされたような感覚だ。
一人旅は初めから終わりまで自由だ。
予定をたてとしてもしなくても良い。
近所のドトールでコーヒーだけ飲んで帰ろうが、バイク駐輪場で引き返そうが、布団から出たくないならでなくても良い。
ただそれらは自由ではない。
twitterの文章はつまりそういうことで、「他の選択肢もあるけれど、あえて自分は旅にでることを選び通す」ことが自由を感じるといってるのではないだろうか。
「分かります。近所のタバコ屋にいくまでも旅ですよね」とか「近所いくのも旅ですよね」みたいなのは、そう思うならそうなんでしょうねぇ……ともんやりする何かだった。
自由は積極的に選ぶことにこそ価値があると思う。
「こんなことしなくてもいいのに」という行為をあえてする。
近場でコーヒー飲んでもいいのに、家から離れた場所の街に出かけてコーヒーを飲む。
わざわざ無駄なことをする。
他人からみたら無駄だと思われることを、あえて自分で選び行えることが自由だ。
だから「する・しない」で「しない」を選ぶのは自由なようで自由ではない。
何か理由(行くのがめんどくさくなった、体調が悪い、天気が悪い、お金がかかるなど)で自由が制限されただけだ。
それでも、「今日は5万円のホテルを予約してキャンセル料100%取られるが、あえて
今日はいかないことを選ぶ。なぜなら気が変わったからだ」は自由だと思う。
その時にやりたいことを天秤にかけて、やりたいことを選ぶことはとても大切なことだと思う。