ゲームを楽しむには心に余裕が必要
いつものtumblrで興味を惹かれたPost
ゲームってさ、効率、合理性、そんなところとは最も反したところにあるんだよな。もちろんゲームクリアそのものにはプレイングの合理性追求が求められるけど、合理性を追求することに対する合理性はない。いわば、ただの無駄。何の役にも立たない。言い換えれば、極めて純度の高い、娯楽。
ならアニメやラノベ、映画とどう違うかっつーと、能動的かどうかってことになる。ゲームは比較対象と比べると、明らかに能動的だ。それに、飲み会やデートのような「毎日はやらない」ものではなく、ゲームってクリアしようと思うなら「ある程度毎日コツコツする」ことが求められる。毎日コツコツすることが必要な、純度の高い能動的娯楽。実はこんな存在って……ゲームくらいしかないんじゃないかさて、そろそろ結論です。
結局僕らには……能動的で純度の高い、毎日コツコツする娯楽を娯楽として楽しむ程度の心の余裕がなくなってるのかもしれないね。
頭では解ってる。そういう「無駄」こそ必要なのだと。
だけど、その「無駄」を能動的に摂取するのは、しんどい。
それなら「有益」を能動的に摂取するほうが楽かもしれない。筋トレや、ちょっと難しい読書のように。
少なくとも、ゲームをやるくらいなら……受動的に楽しめるコンテンツの方が、気が楽。
何故って、もはやこの高速化した世界では仕事やら何やらで常に能動的であることが求められるから。娯楽くらいは受動的に、徹底的に受動的にさせてくれ。あるいは徹底的に能動的でもいいけど、瞬間的なもの(飲み会もある意味そうか)なにさせてくれ。こんな感じなのかもしれない。
まぁ的はずれなことも多いと思うけど、「ゲームでさえもはや能動的な趣味」ってのはあながち間違ってないんじゃなかろうか。
無駄を能動的に摂取するのがシンドいという気持ちはなんとなく理解できる。多分その最もたる現象がVTuberやストリーマーのゲーム配信を眺めるという行為なんじゃないだろうか。
逆にボクは最近それらを見るのが耐えれなくなったというか、よっぽどながら観でなければ見なくなった。
ボクは興味を持ったゲームは自分でプレイしたいタイプだからだ。
とはいえど最近プレイしていてややストレスを感じているのがGame of the Year 2024にもなってる「メタファー:リファンタジオ」。
ペルソナシリーズが好きなので期待して買ったものレベル上げをかなり強いられてめんどくさいという気持ちが強い。アーキタイプというペルソナみたいなものを付け替えて戦うのだけど、このアーキタイプを育成するのがひどく手間というか時間がかかる。その癖、育成課題みたいなものがあってこれまた面倒さを加速させている。
別に面倒でも良いとは思う。ただ正直なお気持ちになるけれど、「わかった、わかった。ただそろそろ軽快にゲームを楽しみたいので取得経験値2倍とかの課金モードを用意してくれないか?」という気持ちが抑えきれない。なんならアーキタイプを育成する経験値アイテムパックでも良い。そのくらい面倒という気持ちが消えない。
わかる。わかるよ?ペルソナシリーズってだいたいプレイ時間100とかあたりまえだから、その感覚で大作を作り込でるわけで早くクリアされたくないんだよね。もっと楽しんでくれよと。でも結局このあたりも上の話に通じていて、心の余裕が失われつつある現代だと耐え難い苦痛に感じてしまう。そこは娯楽なのだから選べても良いんじゃないかと。
もちろん時間があって、楽しむ余裕があればおそらくこの感情はでてこない。そしてボクが若ければ楽しめたのかもしれない。楽しめない人間は卒業するべきだと頭ではわかっているのに。
結局ストリートファイター6がそこそこ流行っている理由は、さっと起動してさっと対戦して、さっと終わることができるのも理由じゃないんだろうか。
今の時代って可処分時間の奪い合いだからね。